谷村新司さんの懐かしエピソード6選

mountain under starry sky タレント
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2023年」10月8日谷村新司さんが旅立たれました。

数多くの名曲を世界に生み出された功績を讃える思いで

谷村新司さんがどのような方だったのか、

生い立ちやエピソードを調べようと思いました。

谷村新司さんの、印象といえば、お話が楽しくて

歌も良くて多才という感じが有り、

気さくに話される感じが、

とても親近感を持ちました

あまりにも早い旅立ちだったので、

びっくりしています。

谷村新司さんの熱き歌心 国境もジャンルも越えて

谷村新司さんのプロフィール

名前: 谷村新司(たにむらしんじ)さん

生年月日:1948年(昭和23年)12月11日

2023年(令和5年)10月8日/74歳没

職業:シンガーソングライター、タレント、

   作詞、作曲、大学教授

出生地:大阪府南河内郡長野町

出身地:大阪府大阪市住之江区

学歴:桃山学院大学ー音楽のため中退

あだ名・別名:チンペイ

血液型:AB型

家族:奥様、男の子2人女の子1人

(娘、歌手谷村詩織)

生い立ち

両親が第二次世界大戦の最中に、

大阪府南河内郡長野町

(現在:河内長野市)

の長野温泉で親族が営んでいました。

旅館に谷村さんの家族は疎開をしていました。

大戦後の1948年に同町内で

谷村新司さんは出生しました。

疎開先で3歳まで生活をした後、

大阪市内へ転居されたそうです。

卒業校

大阪市立桑津小学校、

大阪市立東住吉中学校

大阪府立大和川高等学校

(現在:大阪府教育センター附属高等学校)卒業

桃山学院大学中退。

懐かしエピソード6選

エピソード1:子供の頃体格が良かった

少年時代は肥満体型で、悲しいかな周りに「ブタ」

と渾名をつけられた時に傷ついたそうです。

それは悪口ですよね、どなたでも言われると

悲しくなります。

エピソード2:子供の頃から歌は上手だった

谷村新司さんのお母さんは、

長唄の三味線を弾かれていたそうです。

お姉さんは6歳から

地唄舞をずっと続けていました。

谷村新司さん自身は、幼い頃から

歌を褒められた事が多く、

歌うこと自体は

好きだったそうですが、だからといって

音楽の授業が好きなわけでもなく、

特に音楽に興味があったわけでも

なかったそうです。

エピソード3:モテたい気持ちがいっぱいの思春期

『渡り鳥シリーズ』でギターを弾く

小林旭さんの姿をみて一念発起。

ただただ「女にモテたい一心で」

ギターを練習し始め

やがてバンド活動を開始しました。

(御本人の対談でのお話です)

エピソード4:今なら放送事故?遊び心のあるカリスマ性

「セイ!ヤング」の驚きのエピソード

「セイ!ヤング」では

投稿企画「天才・秀才・バカ」がとても人気が有りました。

谷村新司さんは投稿を選ぶ仕事をしていましたが、

投稿される中で面白い内容ばかりを

選ぶのではなく、そうでもないものも選ぶのです。

「天才・秀才・バカ」では、リスナーのユニークな

下ネタが多く紹介され、そこが多くのリスナーにとっては

人気があったのだと思います。

ある時「しょうもないネタ」を見た谷村さんは

「こいつバカだ。みんな“バカ”って書いてハガキ送ろう」

と放送でリスナーに呼び掛け、投稿者の住所を

読んでしまったのです。

谷村さんのユーモアたっぷりのトークに

リスナーも悪ノリで応え、

投稿者の自宅には「バカ」と書かれた

何千枚ものハガキが届く結果になりました。

今では考えれないほどユーモアがあって自由ですね

「セイ!ヤング」初代ディレクターの渡辺勲さん

 によると翌週、

「うちの弟にバカと書いたハガキがこんなに

来てるんですけど大丈夫なんですか?

弟は大喜びしてるんですけど」と

投稿者の姉から連絡があったそうです。

今なら“放送事故”になりそうな、

昭和の深夜放送らしいエピソードです。

昭和のころ、深夜にラジオ聞くのは、「20歳までの少年が多かった

(聴取率は)20歳から上はゼロなんです。」

っと渡辺勲さんは時代背景を説明されていました。

リスナーは大喜びだったそうです。

エピソード5:人とは見る場所が違う「お茶目」な性格

高知県知事の橋本大二郎さんより

橋本大二郎さんが、大学を作った際に、

学生歌を谷村新司さんに頼んだときの

話です。

谷村さんは「初めての紅白に出たときに、

リハーサルの時、某大物演歌歌手が、

ギンギラギンのブレザーを着て来られて、

思わず大声で笑おうと思ったら、誰も笑わずに

神妙な表情の顔でお辞儀をするので、同じように

みんなと一緒にお辞儀をしました。」と話されたり

また「数年後、紅白の大トリを歌われる大物演歌歌手が、

紙吹雪が大量に飛び散って、鼻の穴にボンボン

紙吹雪が入ってゆくのを見て、どうするんだろうと

思っていたら、構わずに歌を歌いきったので

やっぱり大御所は違うな」っと話されたことを

明かされました。

学生歌は高知工科大学の学生歌で

「FLYING FISHフライング フィッシュ」

の歌だそうです。作詞作曲共に

谷村新司さんが作られています。

曲のテーマは「魚は海を泳いでいる、けれどもやがて空を

飛びたいと思っている」っというテーマだそうです。

”枠を超えてよりもっと広い自由な世界に飛び立とう”

という希望に満ちたテーマになっているようです。

エピソード6:武田鉄矢さんも「勝てないライバル」

武田鉄矢さんは「(私は)1曲だけヒット曲があったんだけど、

そのあとはまったく売れなくなって、食えなくなってしまった。

それで、限界かなと思ったときに、“うちの事務所に来ないか?”と、

言ってくれたのが谷村新司だったんです。彼の事務所に入って、

そこからまた再起することができたんです」

と、谷村さんとの縁を明かしてくださいました。

又武田さんは、谷村さんの人柄についても

話されており、かなり助けてもらったと話されていました。

武田さんにとっての谷村新司さんとの

関係について、「彼に対しては恩人というのもあるのですが、

(当時は)若かったからライバルとして、

彼に負けないようないい歌を作りたいと、

張り切ったんですが、ずっと負けっぱなしです。

彼が軽快な『チャンピオン』を作っているときに、

私が作った対抗馬が『あんたが大将』ですから、

実力の差が分かりますよね。社長から、“テレビのコマーシャル

になるから旅の歌を作れ”と言われて、

私が作ったのが『思えば遠くへ来たもんだ』

という歌だったんですが、彼が作った歌は

『いい日旅立ち』でした。

この楽曲の差を見れば、彼に挑んでも、

挑んでも、“勝てないライバル”でしたね。

(谷村さんが)生きているうちに、“勝ったぜ!”という、

いい歌を作りたかったんですが、

間に合いませんでした」と、谷村新司さんのことを

偲んでお話してくださいました。

谷村新司さんの偉大さを感じます。

谷村新司さんの後期の経緯

2023年3月に急性腸炎の為入院されました。

谷村新司さんは、6月からアリスの

全国ツアーを控えていましたが

ドクターよりストップがかかり中止となり断念をし、

年内いっぱいは治療に専念することを決められました。

その為、定例のクリスマスディナーショーや

ピアノリサイタル「歌暦」も中止となりました。

治療に専念されていましたが、

2023年10月8日に旅立たれ、74歳没。

葬儀は15日に近親者のみで営まれました。

マスコミなどには、16日に公表されました。

中国でコンサートも開いていたので、

中国の外務省の方がテレビで、

谷村新司さんの事を公表していました。

中国、アジアでも活動をされていたので

訃報を聞いてびっくりされた方も

多かったと思います。

谷村新司さんの戒名は

「天昇院音薫法樂日新居士」

(てんぼういんおんくんほうらくにっしんこじ)

たくさんの名曲をありがとうございます。

まとめ

16日の夜、家族とテレビを見ていたら、

画面に谷村新司さんの写真が、

大きくうつされたので、

「なになに!」「どうしたの?」っと

家の中がザワっとした時に

、「谷村新司さんが亡くなられました。」と

聞きました。

これで又一人、時代を大きく創り上げた方が、

旅立たれてしまったっと

思いました。

昭和のフォークソング時代

色んな方がいてたくさんの曲がありました。

学生街の喫茶店のガロ

南こうせつさんのかぐや姫さだまさしさんのグレープ

バンバ弘文さんのバンバン

そして、アリス

どの曲も、哀愁があったりしていい曲ばかりでした。

懐かしいです。

谷村新司さん
orange and blue skies during sunset
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最後まで見てくださり有難うございました。

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